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あくつけき

日記みたいな

BBSの後釜

以前BBSのライブの前座をtoricotが務めたってのを聞いて、「え〜〜〜〜〜〜そこはねごとじゃないのか〜〜〜〜〜〜まあたしかにサードは少しバンドよりだったけどさ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜シンクロマニカ含めてまだ芽は出ていないけど浮遊感のある素晴らしい楽曲つくってんだからさ〜〜〜〜〜〜〜いやtoricotも好きだけどさ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」

 

とか思ってたんだけど、やっと芽が出た…

 

散歩中涙。

 

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8重人格と11羽のカラス

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何年経っても名曲は名曲のまま

 

 

 

 

 

腕を、肩より上に持ち上げることすら困難に

腕、正確には肘の位置、二の腕の向き。上がらない二の腕。

呆けた頭でただひたすらに煙草を吸い、灰色と言うには白すぎるカーテンを眺め暮らす日々。

3年前と、よく似ている。あの頃も、とても寒かった。あの頃も、とても重かった。

 

3年前の原因が、忘却によって失われた以上、もはや俺に苦しむべき材料など、何も残っては居ないはずなのに、また、繰り返してしまったということは、この、身体を支配するなにか、と言うものは、外部にあるのではなく、自分の中にある、ということなのだろう。

 

なにもできない、明るいのが嫌い、寒い。ごめんなさいごめんなさい、うまれさせられてごめんなさい。多くの犠牲を払って産んだはずがこれでごめんなさい。

怠惰なのは自分だけで、一体誰を責められよう。

 

 

 

フキにしてみれば、こんな風に何ヶ月かに一度、果歩が黙ったまま煙草を吸い続けて朝を迎えてしまうというのは迷惑なことだった。膝を立ててじっと坐りこんでいる果歩から不穏な気配がただようので落ち着かないし、一晩中けむい思いをした挙句、自慢のやわらかい毛や太い尻尾に煙草の匂いがしみついてしまう。はじめのうち、フキも鳴いたりまとわりついたりして抗議したが暖簾に腕おしで、結局、これは雨や雪同様、避けられない災難の一種なのだと覚悟をきめた。黙ってやりすごすしかないのだ。

江國香織『ホリー・ガーデン』(1998 新潮文庫

 

引用打つと多少なりとも元気出るな。なんでだろ。

他者に対して芯から優しくありたいと願う。

 

その為にも、自己否定をやめてはならない

首が痛い

ひっさしぶりに寝違えたのかとってもとっても首が痛い。

 

精神衰弱気味

やっぱ他人と自分を比べざるを得ない場所とか、自分を責めてしまいがちな場所は精神にくるな。

33階建てのビルの窓から

大阪を一望できる高い建物から眺める景色は俺にきっと大きな感動をもたらすだろうと思っていたのだが、現実はそうでもなかった。

勝者が手にするであろう風景が自らにもたらしたのは深い悲壮感と虚無感。抗うことを無駄とする絶対的にすら思える現実、悔しさだけで生きている自分の思考が止まる感覚。自分でいることが感じられなくなる。肯定感と自己の消失。

 

自分が肯定できてしまいそうになる場は、それだけで危険だ。自責の念。心地よければ心地良いほど、「ここにいてもいいんだ」と思える場所は、自分について振り返ることを阻害する。そこにいて良いと思える場所は、自分を肯定する。肯定されてしまえば、「なんで自分はこんな幸福を手に入れてるのだろう」と考えるより先に、悩むことなく次に進めるだろう。

 

次に進むことは悪いことじゃない。むしろ、全面的に良いことであるはず。でも、次、つぎ、と、その先になにがある。その過程になにがある。そこに、自分がいたか。自分が認識することのできる自分がいたか。

 

自分を歓迎しない世界に身を置いて、否定に苛まれながら、自己を実感して、それを慈しんで、あーバカみたいだ。

「わたしはそれでもいいと思っていたのに」

最近改めて〈人間が好きだ〉と思うにつけて、友達とやらせてもらってるグループで作る歌詞を彼には悪いが自分の経験に根ざしたものを頼りに書いていこうと思った。それは要するに、〈上手く書こう〉とか〈誰かのために〉とかそういった目指すべきことを諦めた一種のくだらない自分語りをやっていこうというものにあたるのだろうが、まあ、そうするのが一番良いものが書けそうだ、といった一種自分の中にあるであろう神話に心を委ねることになる。

 

あの時のこと、この時のこと、そういったことはどれだけ言葉で説明しようとしてもおそらく正しく表現できることはない。ならば、詩にたよって自分の経験を具体性を失わせながらつむぐほうが、良い気がする。それは諦念でもあるのだろうが、マラルメがいっていたように、観念は、そちらのほうが伝わる気もする。

 

それがいいことかはわからない。そもそも俺は、周囲の人間から聞く話に対しては「ああ、それは経験があるな」と思ってしまいがちな人間なので、こんどは逆に俺の経験というものを他人に伝えてみたくなった、ということだろうか。

 

 

 

「わたしはそれでもいいとおもってたのに」と言い残し俺の前を去っていった彼女の声が、4年経っても心に残っている。あの子のように恋い焦がれてくれた人は人生にとってとても貴重だということを忘れて生きてはならない。

 

「わん」

「わん」

「わん」

 

消したツイートのまとめ

ゆがみちゃん読んで初めて知ったけど親から「お前はこの家に住まわせてもらってる立場なのをりかいしているのか?」って言われるの虐待の一つだったのか。まぁ子供の頃言われたことを20年以上覚えてる時点で心には残ってるのね。

 

最近少し虚しく思うのが、元カノたちについてのこと。三人はみな俺に一目惚れで、かつ親に対してのコンプレックスを抱えていたのだけど、彼女たちが一目惚れした理由って俺の容姿とか立ち振舞じゃなくて、「あ、この人私と同じで愛情受けて育ってない!」と共感力でわかったからなんだよね。

 

つまり、恋されていたのは俺じゃなくて、彼女たちが無意識に作り上げたであろう「自分のことを無条件に受け入れてくれるであろう理想の親」であって、俺自身はソレを投影するための道具でしかなかったということ。そこに気付いてあげられたら、もっと優しく出来たり、上手く対応できたはずなのにな。

 

でも仮に「君が好きなのは俺じゃあない。〈欲しくて仕方なかった理想の親〉を俺に見るのはやめてほしい」なんて言ったら一生モノのトラウマになりそう( ;∀;) いやでも、みんな単純に俺の事好きだったのかもな。俺がそう思いたくないだけか

 

 

どれだけ考えてみても俺がそう思いたくなかっただけなんだろうな。好きだという人を見捨てた事実と真実は変わらない。それがどれだけ辛いことかわかっているはずなのに。