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あくつけき

日記みたいな

シーソーと自己対話

メンヘラ

この間、それでも世界が続くならのアルバムについて、何かしらを書こうとして、結局まともな文章など何も書けなくて「ああ、やっぱり俺はただ享受するだけの人間であって、外部に何かを発するのには向いていないのだ」という事を実感した。

 

そもそもはじめから上手くなどできるわけがない。だから、悲しんだり悔しんだりするのは、もっともっと頑張ってから、それでもできなかった時に悲しめばいい。なんなら、悔しさ、と言うものを糧にすればいい。

 

しかし、結局、歩みというのはその場で止まってしまって、1人ずぶずぶと悲しみ、悔しむ毎日だ。それを、25年続けてしまったのだから、続きの25年もそうなのかな、と思う。

 

何故歩みが止まってしまうのかは自分でもよくわからない。だからきっと、俺は悲しさや悔しさを噛み締めて何もしないのが好きなのだろうと思った。メリットなんて、歌詞のあるなしに関わらず音楽が心地よく聞けるといったものしかないけれど。

 

俺は、付き合ってきた女性を皆、自殺に追い込んだ。その経験から得たものはあったから、それをおもしろおかしく文章にしてみた。自分でも読みやすく感じたし、内容も、少しくらいはあるように思った。でも、そんなことをしても「俺を求める人」や「面白がる人」は増えるだろうけど、結局「俺が求める何か」というのは手に入らないのだろうし、人を傷つけるだけなのだろうとやめた。

 

自分の内面を晒すのは、割り切っているから何も感じない。自己憐憫は情けない、とか、自分を悲劇のヒロインに見立てて酔っているといった嘲笑は間違いなく生じるのだろうが、別に、既に負けた人間だから今更傷つく矜持もないかな、と思う。

 

人に伝えることが目的でないなら、何故駄文を書き、それを公開するのかはいまいちよくわからない。見てもらった誰かに救ってもらおうという気持ちが、もしかしたらあるのかもしれないが、あまり意識化にはでてこない。

 

元々俺は愚痴っぽい人間ではある。それを周囲に面白おかしく伝えるのも癖になっている。けれどそれはあくまでも外でできる話であって、笑いが取れないものに関してはしていない気がする。と、なると結局俺は他人に一切の気を使わずに話がしたいのだろうな。

 

だから、要するに自分にとってのメンターを、他人に求めずに自分で代用しようとしているのかもしれないな。ああ、そうなると合点がいく。気分が悪くなる人間は元々見やしないし、笑って終わりだしな。

 

話すこと、書くことで自分が落ち着く、というのは普遍的なことだろう。でも、案外自意識というものが邪魔して他人には出来ないものだ。

 

彼女が入る時は彼女、いない時は悩みがちな女の子、の悩み事というのを随分と聞いてきたほうだと思う。絶対に肉体関係を持つことがない異性というのは20歳を超えると案外見つからない。長時間の話を定期的にしてしまう相手、というのは日本ではもう付き合うまでには行かなくてもセフレ程度にはなりがちだ。

 

必然的に長期間時間を共有するのだから、いずれかが性的衝動を抱えてしまえば、あれよあれよだ。しかし、性的関係の始まりは二人の友達関係の崩壊でもある。三大欲求の前には、対話相手つまり「メンター」という役割は何の力も持たなくなり、「メンター」ではなく「セフレ」、と鞍替えになる。メンターとセフレは1人の中には共存できない。

 

その点俺は、恐らく男性としての魅力がまるでない上に、俺から女性を求めたりしないので、まぁ都合がいいのだろうな。そのことに対して強い敗北感を覚えたりはしないけれど。多分こちらから求めればそれまでの罪悪感から断りきれないだろうしな。普通に罪悪感を人質とらないS純愛風なSEXがしたい

 

さて、話をもどして俺の話になるが、人の話や悩みを聞くことが嫌、というわけじゃあない。むしろ「こんな俺が人の役に立てるのだ」という実感すら生まれるのだから、好きだ、と言える。じゃあ何が問題なのかというと「相談相手が自分に話している様に、自分も誰かに話がしたいのに、そこには誰もいない」ということである。

 

一度、本当に相手にとって一切得がないであろう話を持ちかけてみた時がある。それはそれまでに随分と肯定的に悩みを聞いてきた人間の1人で、俺が弱っているのを見て「いつも助けてもらっているから、今度は私があなたの力になる!」と言ってくれた。

 

その言葉を受けたので、俺はもう嬉しくなって自分の話をしたのだが、話が核心に移るであろう時に「わかる、私も似た様な事があって〜」という言葉を皮切りに相手の話へと完全に移ってしまった。

 

想定できたことではあったが、俺はこの事実に当時は随分と打ちのめされた。最悪、ひたすら機械的に聞いてくれるだけで良かったのに、彼女は自分の経験と照らし合わせながら俺の話に答えた。別に答えてくれなくてもよかった。回答なんて必要なかった。結局話した所で解決まで持っていくのは自分自身なのだから。けれど、彼女は解決しようと躍起になってくれた。躍起になるには似た状況に陥った時、自分がどうであったかを理解させるのが一番だと、話を、聞かせてくれた。

 

俺は、無償で自分の話を聞かせようとした結果、聞かせた分だけ抱えた。何も変わらなかったから、何もしなければいいと思った。むしろ、マイナスの方が増えた。この世には見返りのないものなどないのだ、という簡単なことを、経験として実感した、良い思い出だ。

 

俺は、傲慢でしかないのだが、「自分が安心する或いは肯定できる」という見返りを元に「擬似的な無償の愛」を注いだ。多分…

 

でも結果そういうことをしていたら自分の精神ばかり濁り、結局「無償の愛」を求める様になった。この構造アレに似ているよね。まどか☆マギカ(笑)無償で人の為に戦っていた結果、見返りがしっかり実感できなくなって、精神をすり減らして魔女になってしまう魔法少女みたい。まあ、救ってきたものなんてないのだけれど。

 

これが「大人になりきれていない」ということなのかもしれない。自分で抱えきれなくなってしまった問題を、なんとか自分で、他人に迷惑をかけないように、処理できるようにならないといけないのだろうなあ。

 

クローンが欲しい。スーザン・ソンタグは「ダミー」には登場人物がこう述べる場面がある。

 

この世界の問題を真に解決する方法は二つしかないーー抹殺か、複製かだ。」

マイケル・リチャードソン編、柴田元幸/菅原克也訳『ダブル/ダブル』、スーザン・ソンタグ「ダミー」

 

古本しかないけどみんな買おう。「ダミー」は、家庭を持つ会社員が自分そっくりなアンドロイドに仕事と家族サービスをやらせ、本人が遁世生活を送る物語だけど、俺はこれを読んで、結末の素晴らしさに感動したのはネタバレになるのであえて書かないが、自分の複製というものを「最高に都合の良い友人」にしたい、と思った。〈自分〉なのだから気を使う必要もないし、好みもバッチリ。片方が落ち込んだ時は片方が支えてやればいい。最高だろう。

 

 

 

あほくさ。