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あくつけき

日記みたいな

知的で真剣勝負な愛の日

死ぬほどつまらないブログだな、と思う。「これは書いても良いことで、これは書いてはいけないことで」なんてことを思い浮かべながら書く日記は俺にとってはゴミでしか無い。出来損ないの、インターネットの"記事"でしかない。そもそも、脳内の雑多なことを吐き出す場所がほしくてはじめたものなのに、脳内をそのまま模写しない時点でダメなのだ。人との繋がりを求めているようではだめだ。自分との繋がりを持つために書かなければならないのだ。なのに、最近の自分というのはどうにも考える力というものに枯渇を感じていて、綺麗なピアノしか摂取できなくなっている。

 

どうしてこんなにもつまらないんだ。

 

何かを吐き出すまで何かを摂取しなければならないのに、今の自分には完全にその受容体すら見当たらないような気がしている。

 

ブログは、次の年を迎えればこれで10年になる。10年間、ずっと文章を書いてきたきがする。自分のことについて、自分が感じたことについて、とても瑣末ながらとても愛おしい文章だったし、とても良かったと思う。

 

誰にも褒められたいわけじゃあ無かったし、誰にも認めてもらえるものだと思わなかったからずっと書いてきて誰にも目を向けられなくても、なんとなくで続けた実感。な何一つ努力をせずに続けた実感はとても愛おしい。しかし愛おしくあったはずの自分の文章がどんどん自分ではなくなっているきがしてとても嫌だし自分は誰なのかわからなくなってくる。

 

2013〜15年の自分の頭がどこにも見当たらなくて、俺はどうなってしまったのだろう。強く死を意識していたからこそ書けたものなのだとしたらそれはとても肯定するべき氏の意識だ。もうこれから、どうやって死んでやろうかということを考えることができなくなってしまうのがつらい。俺は武士になりたかった。「自分がどう生きるのかなんてことを考えること」と、「自分がどうやって死んでやろうか」というのは似ているようでまるで異なる。前者は、自分が死んでしまうということに目を向けてないし思考が止まっている。生は、自分がどうやって死んでいくかを強く意識しない限りは決して生まれない。