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あくつけき

日記みたいな

都会に憧れる田舎の少年少女は自分がこんななのは環境のせいであり然るべき場所にいけば然るべき評価を受けるはずだと思い込みがちだが実際はそうでもない


完全に灯りを消し、真っ暗になった部屋でひたすらに爆音で音楽を聞いた所で、決して良い方に現実が進展するはずもないので、適当に駄文を書き散らしたら、引用でも、無くした論文の発掘作業でもなんでもいいから、手を動かそうと思う。

きっと、多分、手を動かせると思う。

 

と、何かブログに書き散らそうとしたものの、あはは、何も書くことがないやwいやー困ったね。そもそも俺は明るく楽しく過ごしているよりも、どことなく鬱々として過ごすほうが好きなのかもしれない。

だって、考えるのをやめようとしても考えとか、悩みとかが沸いてきて仕方ない時はきちんとーそれが決して正常な状態ではなかったとしてもー脳が働いている、ということだろうし、脳が働いて、言語を繰り返している状態は紛れもなく「自分が存在している」ということに直結する。

トランス状態とか、たのしくたのしくるんるんるんと過ごしている時は、快楽に興奮している時で、ようするにそれは"脳が快楽を感じている"ということで、それも一つの自己認識なのだろうけど、結局自分は楽しかった時期よりもどうにも楽しくなかった時期の方が人生には鮮烈な印象を与えてしまっているので、楽しかった時というのを上手く言語で現して形にすることができないのだ。

 

言語化して、パッケージングして個包装までしてやらないと自分が今生きているかどうかを上手く認識出来ない。そうなると、よりパッケージングしやすい"悲しみ"というものに心が流れてしまうのは当然だ。だが、もうそんなことに考えを避ける時間というものは残されていないのかも知れない。もう、何も考えることなく生きたらよいのだろうか。楽しく過ごせることだけを考えたら良いのだろうか。

 

しかし、俺にとっての楽しい日々、というものはもはや"悲惨を伴わないと訪れないもの"になりつつある。音楽、小説、漫画、食、脳内に書架を抱える人との談合、友人、発表の場、異性との駆け引き、これらは今後、今までのようには手に入らなくなるのだろう。全て、手から離れていくのだろう。

ん、でも楽しみとともに悲惨が来たとして、それはまた、自分が自分と認識できるためのものになるのであれば、それも悪くないのか。いや、そんなわけもないだろう。どうせなら楽しく生きたい。ああ、そうか、もう楽しく生きることができるという選択肢が、自らに残されていないから、不安感でいっぱいになって、心が動かないのか。

 

「時には逃げるのも悪くない、でも、逃げ続けるにもいずれ限界が来る。向き合うときは来る」なんて言われたことを思い出したけど、本当に限界が近いのかもしれないと思うと少し寂しいな。

 

ジーン・ウルフ『ピース』の訳を務めたり、『たべるのがおそい』の制作に関わった西崎憲というえっと、この人何してる人なんだろ笑 まあ手広くやられてる方が年末こんなことを呟いていた。(これ本人に通知とかいかないかな大丈夫かな…『飛行士と東京の雨の森』読んでます…) 

 

 

 

高原英理は『リテラリー・ゴシック・イン・ジャパン』や『月光果樹園』や『少女領域』、ひいては二階堂奥歯関連から馴染み深くて、穂村弘はまあ意図的に読むのを避けてて、あれ、あの人って歌人だっけ。まあいいや、

 

何が言いたいって俺みたいな大学院生もどきみたいな"知識人にすらなれなかった痴呆青年"からすれば、「頭がいい人のくくりには入れてるじゃん」、としか思えないんだよね。でも上には上はいるのは当然の事で、自分より"持っている"人に対して「あいつは俺と違って苦悩なんてないはずだ!!」なあんて、自分を守る考えにハマるのも随分恐い思想なんだよな。結局自分が"もっている"人達と関わることは殆ど可能性として「ありえない」話なのだけど、「狐と葡萄の思想」は その可能性すらも腐らせてしまうのだもの。

 

あはは、この点考えると西崎憲(フラワーしげる) の短歌についても考えたくなるな笑 『ビットとデシベル』(書肆侃侃房/2015)

 

 美人だからそのせいでいやな思いをすることも多くこの気持は美人にしかわからない

 

受験勉強期の偏差値がどれほど悪くても61を下回らない年があって、 その時は、下の人間が数字を羨むものだから、自分は優れている側の人間だと思いこむことができた。

 

知らない女が俺の連絡先を人伝に調べてガンガン交際を迫ってくる時期があったから、自分はモテる人間、つまり男性として優れた容姿を持つと思い込むことができた。

 

生まれつきの変わった髪質、ひねくれたセリフに興味を持った人達が「お前は変わっている」ともてはやすものだから、自分は個性的な人間なのだと思い込むことができた。

 

たぶんそれらはそれで幸せだったのだ。そのまま愚かに気づかなければよかったのだ。でもいつもぶつかった。どこに行っても、どんな分野でもぶつかった。本当に持っている人達と、話が合わない。価値観が合わない。合わせることはできるけど彼らがこちらに降りてこない。ヒールを履いた上で合わせた価値観の先にある不毛。自分が優れない人側である現実、「美人」に、生きることができてない現実、ぶつかる。

 

 理解したい。理解しがたいと一蹴されることが悔しい。理解したいし理解させてやりたい。でも、いや、理解しがたいと言われても、そのまま突き抜けることができる、力がほしい。

 

あー孤独と金銭事情と自らの能力のなさに押しつぶされそう。論文、結局1000字も進められないままに朝が来るのだろうな。