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あくつけき

日記みたいな

書くこと

雑記

前述の日記の第二部、ある日の記述で、ソンタグは「何が私を強くするのか?」と自問し、「愛と仕事の渦中にあること」と答え、「意識の熱い高揚」こそ鍵だ、と強調している。ソンタグにとっては愛すること、欲すること、考えることは根底において明らかに、本質的に同じ領域に属する活動だった。ソンタグが大絶賛していた詩人にして古典研究者のアン・カーソンに『エロス、苦くて甘い Eros the Bittersweet』(一九九六年)という素晴らしい著書があるが、そこでカーソンは言う、「誰かを愛する人の心のなかでエロスのふるまいと、思想家の頭のなかでの知識のふるまい、この両者にはどこか似たところがあるように思えはしまいか」。さらに、「心が何かを知ろうとして手を伸ばしたとき、欲望という隙間がひらけてくる」。この心情はソンタグも語っていて、ロラン・バルトについてのエッセイでこう書いている。「書くことは抱擁だ、抱きしめられていることーー想念の一つ一つがこちらに向かって手を伸ばしてくる」

スーザン・ソンタグの『ローリング・ストーン』インタビュー』(2016 河出書房新社

 

自分の感情や、内部について書くことは、多くの場合において語彙が足りなかったりで、本来の、言語化される前の状態には近づくことすら出来ないようもする。しかし、俺程度のつまらない人間であれば、少ない言葉でも正しく書き表すことが、できるような気もする。

 

精神の切り売りについて、自分は恐らく余裕があるタイプの人間ではないのだが、自分の利益をあまり考えずに相手が自分を欲した場合には限界近くまで差し出してきた気がする。今後は得られるものについて考えていかなければ、日本においては生きていける気もしないが、別に今までに変えることができたのであれば、既に変われていたのだろうし、んーどうすっかな。

 

手を差し伸べてきた分の手は差し伸べられていない気もするが、それはそもそも他者を欲することに臆病になってしまっていたからであり、いや、単純に「こんな俺に他者の手を煩わせたところで他者にとっては何の益にもならないことを理解しているなら、他者なんて求めるべきではないのだ」、と、そんなところだろう。